新世紀への視点

個人投資家からの視点で、日本を鋭く切る!。全国民必見のコラム!

このページの担当:
藤澤暁夫
MLや掲示板でもお馴染みの個人投資家藤澤さん。

株式投資は自己責任です。ご参考の結果には一切責任を持ちません。

かぶこーネット

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00/07/20(木)
そごう問題に思う

「国による私企業の救済か」と思われたいわゆる「そごう問題」は、そごうが亀井静 香氏の電話一本で自主的に債務免除要請取り下げ、民事再生法適用申請とするという 形であっけなく決着した。  住専問題の再来と国会で手薬煉ひいて待っていた野党 は完全に肩透かしを食う形となり政局混乱は回避されそうであるが、銀行株を中心に 株は下落に転じ怪しい雰囲気になってきた。

国会で野党とくに民主党は亀井氏が政府の決定にオーバーライドする形でそごうに方 向転換させたのは「私企業の経営に圧力」をかけると同時に「議院内閣制を否定す る」と批判しているようであるが、選挙前の「神の国発言批判」と同様ピント外れと 言わざるを得ない。  そごうは法的整理されるべきと主張していたのは自分たちで あり、亀井氏は民主党がなしえなかったことを電話一本で成し遂げたにすぎない。  これでは悔しくて喚いていると受け取られてもしかたなく、去る選挙で与党が政権を 維持できたのもむべなるかなといわざるを得ない。

今回の問題は元々長銀・日債銀などの元国有化銀行を民間に譲渡する時に瑕疵担保特 約がついたことに端を発するのだが、何故そんな特約がついたかといえばそごうなど 債務超過企業への貸し出しを無理に継続させるためである。  つまり長銀および日 債銀国有化時点で貸出しを厳密に査定すればそごうおよび一部のゼネコン向け債権な どはれっきとした不良債権であり、それを引き取らせそごう他問題企業を存続させる ためには瑕疵担保特約という不平等条約を結ぶ必要があったということであろう。

つまり瑕疵担保特約を付けずに長銀、日債銀を民間に譲渡するためには、そごうなど の実質大幅債務超過企業への債権を整理回収機構へ譲渡するか、より多くの(おそら く兆円規模)の引当金を持参金として付ける必要があったであろう。 両行とも処理 にすでに3−4兆円が費やされているため、これ以上最初の時点で国民負担が膨らむ ことを避けたいという思惑もあったのだろう。 すべては98年秋の、整理ではなく 存続が処理の基本というソフトランディング路線選択に端を発すると言ってよいであ ろう。

今回のそごうについても、興銀の西村頭取が94年からグループで債務超過であった ことを認識していたと認めている。(いったいその後数年監査法人は何をやっていた のだろうか) 一年間も政府管理下にあってこれがわからぬはずがない。 会社整 理、連鎖倒産、失業増がいやで問題を先送りにしたのである。  ゆえに民主党がこ れを批判するのであれば方法論や揚げ足取りではなく、「整理すべきをしなかったこ と」をこそ問題にすべきである。  

さらなる失業率上昇とそれを反映した雇用条件の悪化、前倒しの国民負担、そして金 融不安再燃、それらを覚悟の上でなければ今回の金融再生委員会によるそごう処理を 真っ向から否定することは困難である。 しかし、振り返ってみれば97−98年に いわゆる佐々波委員会により認められた長銀、日債銀をふくむ大手銀行への国による 資本注入の総括がまったく済んでいない。 98年秋の臨時国会で民主党が妥協して 再度の資本注入が決まったのだから以前の不始末の追及は民主党が国民に対して負う 責務である。 その辺の認識が果たして鳩山・菅氏にあるのだろうか。 

そごう以外にも債務免除を要請する企業は多く、数千億という債務が免除される例が いくつか出ているが、債権を放棄しているのが公的資金の注入を受けた大手銀行であ るので基本的な構図はここでも変わらない。  公的資金の投入がなければ、体力に 応じて不良債権を償却するという従来の銀行の姿勢からして巨額の債権放棄などな かったであろうからである。 ところで「体力に応じて処理をする」、これこそがバ ブル崩壊後の金融問題の根幹ではないか。

金融界の常識がどんなものか部外者の筆者にはわからないが、債権の評価や処理と当 該金融機関の体力とは本来無関係なはずである。 債権が明らかに減価しているなら ばそれはそれとして処理されるのが当然でそうしないのは単なる粉飾である。 それ でもグレーゾーンというのは存在するであろうがそごう向け債権は遅くとも去る3月 の時点ではもはやグレーなどという領域ではないだろう。  金融監督庁も地銀レベ ルまでは全て検査したはずなのにこれらの引当不足を指摘しなかったのだろうか。  また監査人もそごうの開示情報が実態を反映しているか、およびその存続に懸念はな いかについて責務を果たしたとは言いがたい。 3者がたがいに責任を押し付けあう ような形で結果総無責任状態となっている。

責任といえば、今回はそごうの元会長水島氏がバブル崩壊後に受け取った40億円余 りの報酬返還が取りざたされている。  水島氏に良心のかけらでもあればこれを返 還するであろうが、それは問題のごく一部である。  水島氏がかりに一億円しか報 酬をとっていなくともそごうは潰れていただろうし、水島氏が報酬を返還したからと いってそれで責任を取ったとはいえないだろう。  「自分が担保だ」と言って兆円 単位の金を借り焦げ付かせた場合どうすれば責任を取れるかと聞かれても筆者は答え られないが、記者会見に顔を出さずその後コメントも発表しないというのは常軌を逸 している。 ファミリー企業などへの不正蓄財等あれば徹底的に追求し回収すること が債権者でもある国の責務と考える。

民主党も本当にやる気があるのなら、長銀、日債銀破綻に絡んだ責任追及、隠匿財産 没収からはじめてもらいたいと思うが如何。

 


00/07/15(土)
人口問題ふたたび

株式市場低迷の原因の一つとして、このコラムでは初回に日本の人口動態をとりあげ たが、出生率の低下は相変わらず続いているようである。 それに止まらず最近では 年金改革の先送りや、税制改革では逆に各種控除廃止など、出生率を積極的に向上さ せようという政策は一向に出てこない。 一方移民についても、労働力不足を背景と してバブル期には議論が盛り上がることがあったが、昨今の雇用状況で関心は大きく 減退しているようである。

ITだグローバル経済だという時代に国内の人口問題など大して株式相場に関係ない と思われる方もいるかもしれないが、金の流れを大きく左右する事柄だけに大きな影 響力があると筆者は思っている。 同じ資産、収益状況の会社の株であっても、単に 需給の違いというだけではなく、その時点での経済状況に応じて適当だと思われるバ リュエーションも変わるだろうからである。 とくに最近物色されていた大型の内需 関連株にとっては人口減は望ましくないのではないか。

国や地方公共団体の財政が健全であり、かつ法人セクターの負債が小さく、年金や公 的保険などが責任をもって運営されておれば、人口が減ることを受け入れ(もしくは 選択し)それに対処してゆくことは可能であろう。  日本は狭い国なのだし、環境 のことを考えれば人口が多ければいいということもない。 それゆえ、現在でも「人 口減結構じゃないの」という意見があるがこれは余りに視野が狭い議論である。

財政・年金・健保などどれをとってもこの国の制度は人口が増えることを前提に出来 上がっている。 これらの制度を根本的に改革することなく人口だけが減ったら制度 破綻は明らかである。  人口が減らなくとも国民負担率は上がりつづけているの に、この上人口減少に転じたら一体どうなるというのであろうか。 もちろん「姥捨 て山復活、自己責任原則貫徹、弱者は周囲の人間の慈悲に縋るべし」で福祉全般に大 なたを振るうとでもいうのなら話は別だが、そのような話は一向に聞かない。

とにかく、団塊の世代が60歳を越えるのを境に人口高齢化は極端に進む。 現在の 制度では高齢化は財政等への負担増に直結する。 もし人口問題に積極的に関与する 気がないのであれば今のうちに制度改革に着手し、団塊の世代に負担増と給付減を求 めることが不可欠である。 突出して人口が多いこの世代が大きく「負担<給付」の 状態で福祉の受け手となることを放置すれば、あとは荒涼たる財政状況になるであろ うことは明らかである。

しかし残念ながら、いかに必要かつ理に適った改革であっても、政治的に高齢者プラ ス高齢者予備軍を敵に回すようなプランは実現不可能である。 普通選挙下の民主主 義では理性は欲望の前に敗北する。  ゆえに、今の人口構成下にあって将来の人口 減少にも耐えうる制度を作るということは事実上不可能である。 

現役世代がこのような国の状態にしてしまった以上、日本には当面少ない人口でゆっ たり暮らすというゆとりの選択は存在しない。 残念ながらそれは財政他の諸問題を 解決した後の話である。  それまではできる限り若年人口を増やす(というより現 実的には若年人口の減少を最小限に止める)ように政策の舵を取るしか仕方があるま い。

ところが現実には扶養控除の廃止など逆の方向へ政策が向かっている。 マスコミも ちょっとでも政府が人口増を促すような政策を出すと未だに「産めよ増やせよの再 来」「女性の社会進出の妨げ」などそれこそ時代錯誤的な対応も少なくなく情けな い。 少子化対策が必要ないと言いながら福祉も年金もこれまで通り受けようという 人々には、素直に「ずうずうしい」と言う権威が一つは必要である。

誤解のないように書くが、筆者はバブル期までは人口減が望ましいと考えていた。  しかし最後のチャンスであった80年代後半にも制度改革は行われず、その後も旧世 代が不十分な負担のまま次々と引退してしまうのを見るに及んでそれは適わぬ夢だと 悟った次第である。  この国の構造問題の根は思いのほか深いと言わざるを得な い。

 


00/07/01(日)
喉元すぎて熱さ忘れる

すったもんだの揚げ句そごうの債務免除が決まった。 このうち新生銀行から200 0億円を買い取る預金保険機構が970億円を放棄することになっているが、当の松 田理事長が「モラルハザードになるので私個人はおかしいと思うが、やむを得ない苦 渋の選択」という異例の事態である。  そしてこれほどの規模の債務免除にもかか わらず、事前にそごう側でこれまでの責任が取られていない(これからである)とい うのも驚きであり、それにもかかわらず債権放棄をする金融機関や国も見事なほどの 太っ腹である。

そもそも98年に金融機関への公的資金の導入が決められる時に、個別の金融機関で はなく、経済の根幹をなす金融システムの維持のために行われ、また関係者の責任は 厳格に追及するとされていたはずである。  ところが、責任追求は破綻金融機関に 限られ、またそれも「主犯格」の元頭取のみ、もしくはその周辺の数人に限られるな ど、巨額な損失および国民負担を考えると余りに「生ぬるい」状況である。  その 中での今回の一民間企業の救済である。 経済全体の要どころか、そごう関係者には 悪いが百貨店業界全体の要ですらなく、国民にとっての必要性が極めて薄いものであ る。 当時の「金融システム維持」というのがまさしく大義名分として悪用されたと いうことがここに来て明らかになってきた。

今回の一連の議論が与える違和感の根源は何かと考えるときに、多くある過剰債務企 業のひとつであるそごうが債権放棄を要請したのち、ある時点から急に「債務が免除 されないとそごうは確実に破綻する」ことが自明とされてしまったことである。 も しそれが本当であるならば、そごうの99.3期の監査報告書にその存続可能性につ いての懸念が示されているはずであるが、昨夏そごう株の急落がなかったことを見る とおそらくなかったのであろう。(有価証券報告書未確認のため憶測です) である ならば、当分の間利払いの棚上げ等の支援でそごう側の再建および自己の責任の取り 方を見守り、それらが軌道に乗ってから判断すればよかったはずである。

現実問題として、債務が免除されないとそごうが破綻するであろうというのは、おそ らく「今になってみれば」その通りなのであろう。  しかし、債務免除を言い出す ということは、それ自体大きな賭けであり、その結果免除が受けられなければ破綻す るというのは性質上やむを得ないことではないか。  事前に大方の人々に納得がゆ くような再建案・責任の取り方が金融機関に示されればこれほどの騒ぎにはならな かったはずである。 ゆえに、そごうが今回救済されるのは政治的理由および社会的 影響からという理由に絞られる。

確かにそごうが破綻すれば、一万人からの社員、連結ベースで一兆円からの売上(決 算書見て今年まで千何百億だと思っていた人も多いのではないだろうか)があるのだ から影響は小さくないであろう。  しかし、それならば会社を大きくして一定規模 以上にしてしまえば、いくら杜撰な経営やそれを無視した給与・賞与支払いによる散 財で破綻に瀕しようと国が助けてくれるということになってしまう。  松田理事長 がいみじくも言ったように、これをモラルハザードと言わずして何と言おうか。   そごう関係者には失礼を承知で言わせていただくが、この国の将来のためにはたとえ 大きな負担となろうともこのような前例は作るべきではなかった。

マスコミではそごうの債務免除が認められれば、次にゼネコンが雪崩を打って駆け込 み寺と化した政府・自民党に転がり込んでくるだろうと懸念しているが、そごうに認 めてゼネコンを拒絶することは政治的のみならず論理的にも至難である。 もう多く の人が感じていると思うが、98年にはじまる金融機関への公的資金導入は、金融機 関自身の救済という側面よりもむしろ金融機関を迂回した民間企業救済が主目的だと いうことがはっきりしてきた。  手を緩めないと自民党が言いつづけてきた構造改 革には、結局全く手をつけずじまいということである。

92,95,98年と3度にわたって日本の構造改革の遅れから株が売り込まれるとい う事態を経験したが、対処はいつも基本的に患者に輸血をするだけという姑息療法 で、いつも献血を頼まれる隣人は患者の分の仕事まで頼まれ青息吐息である。  こ れではまたいつ同様の理由から株が売られても不思議ではない状況であり、一旦株価 が本格下落に転じれば今の脆弱の景気回復などすぐに腰折れする可能性大である。   もっとも超高齢化社会を目前として、後は野となれ山となれと皆「ツケ」で乱痴気 騒ぎを繰り広げようというのかもしれないが。

自己責任という言葉は投資で損をした投資家のためだけに存在する言葉となり、総無 責任化のなかでごく一部の人間・企業だけに「義務」として本来はその他大勢が果た すべき責任が押し付けられてゆく。 このような状況の中に本当に優れた人材や企業 がいつまでもとどまると考えているなら、前回も書いたようにそれは迂闊であり傲慢 である。


00/06/24(土)
「弱者と強者」

衆議院議員選挙が目前に迫り、各党とも国民の支持を得ようとリップサービスに必死 である。  今回は唯一民主党が所得税課税最低限の引き下げという「苦い薬」を持 ち出したが、与野党から「弱いものいじめ」と非難の集中砲火を浴びてトーンダウン を余儀なくされた。 残るは「安心できる老後」「年金支給カットせず」「財政再建 は景気回復の後」など甘い言葉のオンパレードである。

この「弱いものいじめ」と言われる際の「弱者」は本来「低所得者」と言われるべき であろう。(その言葉すら気分を害するのを恐れて使われないが)  そもそも所得 の多寡とその人間の立場の強弱はいつも一致するわけではあるまい。  資本主義経 済では確かにかねがあれば大体のものは買えるし、いろんなサービスが受けられる。   それゆえか、貧乏人が金持ちを批判するのは自由だが、金持ちが貧乏人を批判す ることはタブーである。

それはまるで政治や経済に関する基本的な知識のない農漁民が官僚批判をすることは 自由であるが、官僚が事あるごとに各種補助金や補償金に群がる彼らを批判すること がタブーであるがごときである。 言い換えれば、社会の特定の立場にいる人間はそ れだけで発言や行動に制約を受け、一方その対極にいる者たちにはほぼ完全な自由が ほとんど責任を伴わず与えられているということである。  厚生年金は支給額が低 いと言って独立しておきながら、共済年金の財政が悪化すると統合を言い出すのがよ い例である。  持てる者、エリートと目される者は社会的にかなりのハンディ キャップを負わされているのである。

すべての国民が平等であるという憲法下で基本的な権利・義務がその人の社会的立場 によっていちじるしく異なるということは、筆者にはとても不思議なことであるが、 護憲を標榜する人々は誰も疑念を抱かないようである。  しかしながら、この「逆 差別」は歴然として存在している。  おそらくそれは「差別」そのものが無くなった今も残る階級社会からの遺物であろ う。

まだ普通選挙などというものがなく、社会・経済運営が一部の特権階級にのみ委ねら れていた時代には、なるほど「ノブレス・オブリージュ」なるものが存在していたの はもっともである。  しかるに、現代社会には支配階級など制度上は存在しない。   特権があるとすれば、それは逆に経済的に恵まれない人々にのみ与えられてい る。  そもそもそれ以前に日本社会は差異を生まないための二重三重のセーフガー ドで守られている。

まず会社内では社員の成績のごく一部しか待遇に反映されない。 天と地ほどの能力 差でやっと報酬に差がついたとしても、税金のみならず、社会保険料も多く支払わね ばならない。  起業しようにも、労働分配率は高く、倒産リスクは個人の破産リス クでありながら成功時には株式公開して株を売りだしでもしない限りガッポリ税金を 取られる。(それも来年からは許されなくなるが)  

分別があり堅実な金融機関に金を預けると、何も考えずにただ金利の高い怪しげな金 融機関に金を預けるのにくらべ大分目減りがする。(一部乱脈経営の信組だけを言っ ているわけではない。  バブル崩壊の最中に8−9%の高金利で資金調達した資金 で不動産投機し、厳密な資産査定が行われればそれらの償還前に経営破綻していたで あろう現/元国有銀行も含む)   株を買った会社が実は粉飾決算とわかり倒産す ればすべてを失うが、当の粉飾企業の社員は粉飾期間中本来取れないはずの給料を受 け取り、多くの場合退職金まで手にして転職する。 いわゆる「資本家」は非常に弱 い立場にあるのである。

それなのに、未だに世間では資本家は強者で労働者は弱者、金持ちは強者で貧乏人は 弱者、青壮年は強者で老人は弱者、教養人は強者で無教養は弱者といった具合であ る。  この区分けでゆくと、弱者の数は強者をはるかに上回るので、選挙ではほと んどの政治家が弱者の味方である。  これでますます「弱者」は強くなり、「強 者」は弱くなる。

票集めではなく、本当に「弱者にやさしい政治」を標榜する政治家の方々は、一度頭 の中を白紙にしていったい誰が本当の弱者であるのか、また本当に「いわゆる弱者」 が経済的に恵まれないのが日本経済停滞の原因であるのかを考え直していただきた い。  抵抗のすべもない本当の弱者が海外へ逃げ出してしまえば困るのはいったい 誰なのかを。  「IT革命」が進むほど日本に住む必要性は少なくなるのだから。

最後に「弱い」と「善」を、「強い」と「悪」を条件反射的に相関づける思考だけは 何とかならないものか。  「弱者」は善いから税金を払わなくてよいのでもなく、 「強者」は悪いから税金をたくさんとられるのではないのです。  高額納税者を蔑 むような国の将来が明るいとは筆者にはどうしても思えないのである。

 


00/06/10(月)
「ちょっとおかしいんじゃないの」

債務免除

財務内容の悪化した企業による債務免除要求が相次いでいる。  もちろん、要求す ること自体は自由ではあるが、債務免除を求めるということは単刀直入に言えば借金 踏み倒しである。  巷で借金のほとんどを踏み倒しておいて商売を続けることが極 めて困難であることを考えると、尋常なこととはいえない。

とはいえ、社会的影響を考えると潰せないし一旦潰すとその方がかえって金融機関の コストは大きくなるという意見もある。  社会的影響とは、失業や連鎖倒産のこと であろうし、潰すとコストが嵩むというのはこれまでに破綻後に債務額が急に増える ことを指すのであろう。 

こういって話がだんだん専門的に(この段階ではまだちっとも専門的ではないが) なってくると庶民は煙に巻かれてしまうが、社会的に一番の基本は押さえておく必要 がある。 何千億という借金を棒引きにしてもらうからには関係者は最大限の犠牲を 払うべきということである。 経営陣が退陣して、希望退職および給与の10%カッ トというようなものでお茶を濁して済ませてよいものではあるまい。

実際企業の財務がそこまで悪化する過程では、キャッシュフローや土地の時価などに 目をつぶり経理操作もどきのことをして、責任ある経営では払えない給与・賞与を長 年にわたって払ってきているはずである。 この意味においては経営者のみならず、 全社員が会社を搾取した形になっていることも少なくあるまい。  もちろん、その ような放漫経営を許した株主にも重い責任がある。

天災でいきなり窮地に陥るような場合を除いて、社員一人あたり一億円にもなるよう な債務免除を求めるにあたっては、まず100%近い減資と、採算が十分とれるだけ の人員および報酬のカット、そして経営悪化過程の経営陣の報酬返還などが大前提で ある。 また金融機関の側も債務の帳消しではなく、株式への転換などは最低限要求 するべきである。

銀行への公的資金投入、大企業の相次ぐ債務免除要求などから、「なぜ中小企業だ け」という声が上がり、それに対応してザルに水のような公的信用供与が行われると いう一昨年からの流れはまさしくモラルハザードである。  無理が通れば道理が 引っ込むというだけでなく、退場すべきものが退場しなければ過当競争はなくなら ず、新興企業も育たないと思うのだが。

会計上の処理

今年から来年にかけて退職金・年金会計の変更から特別損失を計上する企業が相次い でいる。 これにしても明らかに多額の掛け金不足となっていながら長年開示もせず に放置してきた企業などは問題であるが今は横へ置くとする。 企業の中にはどうせ 巨額損失が出るのをいいことに、子会社株式や在庫の評価減をどさくさ紛れに行うも のがあるようである。  

この他でも業績が回復して余裕が出てくるといきなりドンと各種評価損を建てて「財 務体質の強化を図る」とのたまう企業や、子会社公開や株式および土地の売却益が出 るのに会わせて不良資産の償却を行う企業は後をたたない。  気持ちはわからなく はないが、恣意的に資産の評価をどうにでもできるのであればそのようなものはディ スクロージャーとは言えない。  

多くの場合ある期にまとめて出されるその手の損失は、実際のところそれまで何期か にわたって滓のように溜まったものである。  それを業績をよく見せかけたいなど の理由により先延ばししてきて、よい口実ができたときに出している。  そういう 企業については、貸借対照表のみならず、10−20%の変動にも市場が一喜一憂す るところの企業業績もあてにならない。  にもかかわらずそういう企業に限って 「来期経常50%アップ」とか「変化率が大きい」とか言ってもてはやされたりす る。 

企業の財務格付けは一般にその時点のありのままの財務状態を反映するものである が、できることなら格付け会社には当該企業の実際の状態と表向きの財務諸表の状態 を比較して、会計態度格付けをもお願いしたい。  できるかぎり保守的(良心的) な財務諸表をつくる会社をAAAに、粉飾まがいのことばかりする会社にはCを与え るというように。 

ゼロ金利解除迫る?

日銀とくに速見総裁はどうしてもゼロ金利を解除したいようである。 日米政府より 再三釘をさされながらも発言の端々に意欲が滲み出ている。  たしかに、中央銀行 が金利をゼロに誘導し続ける姿は尋常ではないし、金利は市場が決める方が自然では ある。 ソフトバンクや光通信を初めとする一部株式がとてつもない値段をつけたの もこの政策と無縁ではないだろう。

しかしながら、日本の経済・財政状況もまた尋常な姿とはいえない。 日本経済は記 録的高水準の財政赤字下にもかかわらずゼロ成長がやっとという状況で、企業部門の 債務も依然として非常に重い。  銀行貸出しも貸し渋り批判および公的信用保証の せいかそれほど減っていない。  個人は非常に厚い貯蓄にもかかわらず消費を増や す気配がない。

自然に任せる、つまり国および法人セクターの財政・財務状況を反映すれば当然金利 は上がることになる。 信用リスクの観点から言えば、急速に少子高齢化が進み経済 の先細りが懸念される中こんなボロクソな財務の主体に1−2%の金利で金が貸せる ということ自体が異常である。  もしそれが日銀のゼロ金利以外のなせるわざだと すれば、デフレに伴う実質金利高を反映したものなのであろうが、ゼロ金利解除は明 らかにデフレの収束が前提になっている。

金利が上がれば今再建中と称して一息つけている限界的企業の多くは苦境に立たされ るので、その前にと債務免除要請ラッシュとなっている。 特定企業だけが債務を免 除されてしまう前に金利を上げて淘汰の原理を導入しようというものなら日銀の意図 はまだ見上げたものである。

しかし、よくある議論は低金利により国民が毎年何兆円もの得るべき利息が得られて おらず消費が低迷しているというものである。  これでは個人から企業や国への資 産の移転が望ましくないものとして捕らえられている。  しかし、少しでもバラン ス感覚がある人なら依然として個人は超過貯蓄であり、企業および公共団体は過剰債 務であることがわかるであろう。  インフレにより札を刷るという日銀が唾棄する 行為によるのでなければ、この所得移転の継続より有効にアンバランスを解消する方 法は見いだし難い。 

さらに、大方の企業体にとって必要なのは借金による資金調達ではなく、資本による 資金調達である。  高金利は投資の魅力を減じて預貯金への資金集中を助長する。  金融機関および重厚長大企業の淘汰は進んでいるとはいえず、金利正常化を通じて 消費を刺激するというやり方はかなりリスクが大きいし、長期的な国民の所得増につ ながるかも疑問である。

 


00/05/27(日)
「神の国日本のマスコミ」

森首相の「天皇を中心とした神の国」発言でマスコミは大騒ぎである。 「マスコミ は」と書いたのは筆者の周囲で今回の発言を深刻に受け止め問題視している人などま るでいないからである。  これは筆者にもともと人権感覚、憲法意識などが希薄な せいかもしれないが、そもそもマスコミがいつも持ち上げるところの「庶民感覚」が 鋭い人権、平和、護憲感覚に基づくものだとも到底思えない。  首相に寄せられる メッセージにも肯定的なものが結構多いようである。  今回のマスコミの対応を見 ていると、勝手に自分達でつくりあげた「理想の日本社会」から現実がだんだん離れ てゆくことへのヒステリーに似た苛立ちが感じられる。

このように言うと不愉快な読者もおられるかもしれないが、日本のマスコミの主流は 戦後一貫して「りべらる」であった。  括弧付きで書いたのはそれがリベラルとい う言葉の元来の意味からかなり離れて、護憲、平和主義、平等主義、弱者/貧者性善 説、強者/金持性悪説、マテリアリズム、ヒューマニズムなどの概念に彩られた社民 主義に近いものであるからである。  しかし昭和30−40年代あたりまではマス コミの論調と世論は居間よりはかなり一致していたように聞く。 マスコミは国民を 「啓蒙」し、世間は反権力たるマスコミを権力たる政府より信用してきたふしがあ る。 革新都府政が相次いで誕生し、また国・地方を問わず財政悪化が急速に進み始 めたのもこの頃である。 「国が、政治が、社会が悪い」で通ったマスコミにとって 良き時代であった。

ところが近年マスコミ主流の影響力に明らかに陰りが見えてきた。 憲法改正への抵 抗が国民の間でなくなり、平和への関心は薄れ、拝金主義・エゴイズムが広がりを見 せている。 いつのまにか、マスコミの論調と国民の本音の間にかなりの溝ができて しまったのである。 今でも新聞紙面やTVインタビューに表れる世論はマスコミの 論調と瓜二つであるが、多くの読者や視聴者はそれらはマスコミが自分達に都合がよ い意見を選んで載せているのだと気付いている。  何日かネットサーフィンすれば マスコミのいう世論と実際の世論が相当違うことに誰でも気付くであろう。  第一 権力の座についたマスコミは今や裸の王様となりつつある。  

このことは当然マスコミも気付いており、それゆえ旧態依然としたマスコミ人は苛 立っている。  長年自分達こそが正義だったのである。  自分達の主張こそが理 想社会への道であったのだ。  しかしどうだ、国会が改憲に着手しようとするのに デモ一つ起こらない。  死刑廃止は一向に盛り上がらず、少年法改正や実名報道が それなりの支持を受ける。  過去の遺物であるはずの自民党政治がいつまでも続き、 21世紀の政党であるはずの社民党は風前の灯である。 自衛隊への国民の理解は 年々深まり、明治・大正生まれの年寄りがいなくなれば自然消滅と思っていた天皇制 度も一向になくなるけはいがない。 野党民主党鳩山代表は消費税増税や(所得税) 課税最低限の引き上げなどと言う。  そこへもってきて今回の首相の発言である。   堪忍袋の緒が切れたといったところであろう。

その証拠に記者会見で質問する記者たちは、まるでとぼける容疑者を必死で責める検 事のごとくであった。 とくに、若い記者が自分の父親ほどの年齢の首相に向かって 「資質の問題ではないか」と責め立てる姿は異様ですらあったが、ここで露になった のはむしろ「マスコミの資質」である。  質問に立った記者の多くには一国の首相 への敬意のかけらもなく、質問する資質に欠けていた。  かりに彼らがオランダで 去る戦争に関する十分な謝罪をせず帰国した天皇にインタビューする機会があったと して、このような話し方をするのであろうか。 また新聞社(通信社)のバッチを外 して一対一の個人として森喜朗と   出会ったとして同じように話すのであろう か。  そうであるならそれはそれで見上げたものだが、筆者には彼らがマスコミの 使命、資格について誤って考えているとしか思えない。

話は変わるが公共広告機構の広告(?)で筆者が気になっているものがある。 ブ ルームバーグニュースをご覧の方々はご存知だと思うが家族が臓器移植について簡単 に語り合い「死んだら何も残んないもん」で終わるアレである。  表面上は中立を 装い、「話し合うことが大事」といいながら実際この最後のセリフで巧妙に(?)臓 器提供に協力せよとのメッセージを発している。  たしか政府は移植を全く個人の 意思にゆだねる姿勢だったと思うが、それはさておき、「死んだら何も残らない」は 宗教的にかなり問題となりうる発言である。 警戒すべきはむしろこういった手口で あると思うのだが、悲しいかなそれはマスコミの常套手段なのであった。

 


00/05/13(土)
「鶏が先か、卵が先か(消費が先か、所得が先か)」

確率と投資

ここ数年業績が良い成長性のある会社の株を買っておけば良いという相場が続いてき たが、近頃の情報通信関連株の大幅下落で状況が変わってきた。  もちろん、中に は業績の行方自体の暗雲が垂れ込めてきた銘柄もあるが、業績は予想通りに推移して いるのに株価だけが下落している例も少なくない。  買われすぎと言えばそれまで かもしれないが、これまでは業績のしっかりしたものを買っておけばそれで良かった のだから腑に落ちない投資家も多かろう。

値嵩株肯定派はそれらの企業は成長の余地が極めて大きいので現在の収益水準から株 価を論じられないと言い、否定派は何百倍ものPERを見ただけで正気の沙汰ではな いと言う。 実際両者の言い分とも一理あるのであり、それらの企業の中には収益が 現在の数十倍以上になるものも出るだろうし、株価に業績がついてゆかず投資家を嘆 かせるものも少なくないだろう。  問題は肯定派は主に良いシナリオだけを描き、 否定派はただそううまく行くはずがないと言うだけで、投資判断の参考になるような 議論に至らないことにある。

実際ある程度投資経験のある人なら、事前の予想と実際の結果に相当のバラツキがあ ることがお分かりだと思う。  またある時代に花形企業であっても次の時代の花形 企業たりえない場合が多いこともご存知であろう。  また業界として大きな成長を 遂げる中でも多くの企業が淘汰されてゆくことも珍しくない。  投資においては、 シナリオより確率(オッズ)がモノをいうのではないだろうか。

確率といっても、個別企業について10年後の業績の期待値を出せと言われてもそれ はシナリオを書くのと大差ない作業になる場合が多い。  ことにIT関連企業のよ うに過去の収益動向という参考資料がない場合はなおさらである。  ゆえに確率と いっても学問的なそれではなく、多分に感覚的なものである。  この「確率感覚」 で全てうまく行くとは思えないが、少なくとも20万円近いソフトバンクや光通信を 買って大損をするということはなくなるであろう。 (そのかわり上記銘柄を6万で 買って18万で売ってボロ儲けするというようなこともできなくなるであろうが)

昨今PSRが指標として使われるようになってきたが、確率的にPSRは有用な指標 であるらしい。  低PSRは単独の指標としては極めて有用で、高ROEや低PE Rを大きくしのいでいる。(”What Works On Wall Street” by James P. O’ Shaughnessy, 1996) 逆に高PSRはワーストである。  これと高PBR、高いP ER(PCFR)がワースト3であることからすればいずれの指標でもずば抜けた高 値をつけるIT関連株に投資することが確率的に非常に不利であることがわかる。

もっともこの統計は1954−1994の期間でとられているので、IT革命前と後 では状況は全く違うという主張もあるだろう。 しかし、過去の全ての指標があてに ならないなら投資判断を下すこと自体が不可能になる。  買う側もなんらかの根拠 を持って割安だと判断しているはずであり、そうでないなら単なるバクチかはたまた ロシアンルーレット/チキンレースである。

ただ、投資がうまくいく確率が低いからといってそれ即ち投資として劣るわけではな い。 うまくいった場合のリターンが低い成功確率を補って余りあるくらい高ければ いいのである。(捨て値のオプションやボロ株の買いが正当化されるのはこういう場 合であろう) しかしながら何百倍のPERや何十倍のPBRというのは現在の十倍 ・二十倍の業績は織り込んでいるわけであり、さらに株価の数倍化を狙うということ は現状の百倍の利益を期待するということになる。  中にはそういう企業も出るで あろうが、特定の一社がその中に入る確率はやはり低いと言わざるをえまい。

確率的に不利であるならば何故それほど多くの投資家が高値のIT関連株に集まった のかという疑問もあろうが、一つには短期的な値上がりが凄まじかったこと、また上 記2社やヤフーなどが一攫千金の夢を与えたことが大きかったと思われる。  何せ 払い戻し率が5割以下という宝くじが大量に売れる国柄である。  期待値ではなく 最高値がものを言ったとて不思議ではない。

このように書くからといってIT関連は投資対象たりえないとまで言う気はない。  筆者の記憶ではソニーにもロームにもソフトバンクにも光通信にもそう遠くない過去 に株価3000円台の時期があったはずである。  当然その時点では市場には悲観 的なシナリオが満ち溢れていたはずであるが、情報通信産業が次の主要産業であると いうことは当時光ファイバー関連株が賑わっていたことからも既知のことであった し、ソニーを除いては今も当時も経営トップは同じである。  会社および経営者の ポテンシャルに賭けるのであれば皆が群がる時ではなくとも皆がそっぽを向いた時で もいいはずである。 そしてオッズはそういう時の方がはるかに良いのである。

 


00/04/16(日)
「鶏が先か、卵が先か(消費が先か、所得が先か)」

何としても景気は回復基調にあると言いたい政府であるが、2四半期連続のマイナス 成長、一向に伸びてこない個人消費を前にして歯切れが悪い。 そんな中でまた「所 得が回復して、それが消費増につながることが次のステップ」というような声を聞い た。  確かに所得が回復すれば消費も増えやすくはなるであろう。  しかし、何 もしないで民間所得が回復するなら苦労はいらないし、実際ゼネコン、金融機関、重 債務企業の救済など政府の多大な努力にもかかわらず所得は伸ばせないのが実際であ る。

この欄でも重ね重ね書いてきたが、今回少なくとも景気回復「感」が出てきたのはま ず株価上昇があったからである。 そして株価上昇はゼロ金利による金余りもある が、他方では企業の収益体質の強化によるところが大きい。  さて、この「収益体 質の強化」とは何であるかといえば、売上げが伸び悩む中でも収益を伸ばせる即ち 「減収増益」にできる経営体制に他ならない。

投資家なら誰でも知っていることであるが、なぜ減収でも増益になるかといえばそれ はコスト削減(経営の合理化)のためである。  なるほど文字通りに合理的な経営 ・生産体系に組織替えすることによりコスト低減できる場合もあろうが、多くの場合 では「コスト削減=人員・給与カット+外注費削減」である。 人員カットも給与 カットも下請けいじめも個人の側からみれば所得減である。 

つまり、消費が伸び悩む中で株価が上昇し続けることは、大方の給与所得に依存する 人々の所得抑制を意味する。  言い換えれば景気回復の牽引役である株価上昇が今 後もつづくためには、給与所得の上昇は見込めないということである。 ならば所得 の増加が消費の増加に結びつくのを待つという現在の政府の姿勢は根本的に間違って いることになるのではないか。  

今こそ発想の転換が必要なときである。  消費は所得からしかできないわけではな い。 貯蓄からも消費できるのである。 消費が増えれば、つまり売上げが伸びれば 企業も収益を大きく犠牲にすることなくある程度手綱をゆるめることができる。 ま ず所得ありきではなく、まず消費ありきと考えるべきではないか。

そうは言っても、首を亀のように引っ込めた国民が所得も増えないのに消費などしよ うかと疑問に思うのもまた自然である。 今のように物価が下がり、貯蓄も100% 守られている状態では消費のインセンティヴは低く、貯蓄のそれは極めて高い。   これを逆に貯蓄のうまみを減らし、消費のメリットを大きくするような政策こそが持 続的かつ自立的な景気回復には必要なのではないか。

さて、貯蓄のうまみを減らすのは一つには元本保証を止めること(ペイオフ)であ り、もう一つは貯蓄の実質購買力を下げること(インフレ)である。 この2つの組 み合わせにより、住宅など資産性の高い消費および株や不動産などへの投資が比較優 位となり増加が見込まれる。 幸い日本では家計部門の貯蓄はいまだ世界でもトップ レベルで、ここから消費に振り向ける余地はマクロでは十分にある。 あとは心理の 問題であり、それはいかに国民の損得勘定に訴える政策を打てるかにかかっていると いえる。 残念ながら大蔵大臣も日銀総裁も発想を転換するにはいささか年を取りす ぎているようであるが。

 


00/04/07(金)「淘汰なき景気回復」

当初堺屋経済企画庁長官の「長年の勘」ではじまった日本の景気回復も、設備投資の回復基調など政府・日銀も認めるところまで来た。 株価も概ね順調である。  しかしGDPは二期連続大幅マイナス成長で、失業率も高止まりむしろ悪化の傾向も出ている。  個人消費も低調なままである。  公共投資も今年はさほど見込めない。 一体景気は本当にこのまま回復してゆくのだろうか。

今回の不況はバブル崩壊に端を発する資産デフレであるが、言い換えれば採算性の乏しい資産が余りに増えすぎた、反対側から言えば余りに多くの金が収益性の乏しい資産につぎ込まれたことによる。  不動産しかり、株しかり、設備しかりである。  ではこの1−2年でそれら資産の収益性は向上してきているのであろうか。

不動産については、その価格が下落することにより収益性は確かに向上してきている。 しかし収益性の向上が顕著なのは全体から見れば一部に限られていて、それ以外の物件では未だに土地下落のリスクをカバーできるだけのフローを生み出すことは困難である。   今の超低金利を前提にすれば大部分の物件でそれなりの収益を上げられるだろうが、不動産投資はやはり長期が前提になるし、何より未だに続く全国的な地価下落傾向が不動産全体で見た場合の収益不足を示していると思われる。

そもそも、不動産の収益性の根本的な改善のためには賃料の上昇が必要であろうが、根底に物件不足がない以上、商用物件の場合賃借人がそれを使用して十分な収益を上げ、また住宅の場合十分な所得があって家賃を払える余裕ができないと、賃料引き上げは困難である。  経済の現状では一部のプライム物件でのみしかそれは成立しないであろう。

さて次は設備である。 これは数年来過剰が指摘されているが、十分に設備廃棄が行われないうちに新たな設備投資が進んでおり、全体としての過剰は解決していない。 これに対し、廃棄されるべき設備はもともと用済みな設備であり、昨今の技術革新を反映した生産性の高い設備はIT関連を中心に不足しているとの指摘もある。 しかしながら、マクロで見ればより大きな設備資産をかかえる事になり全体としての生産性の向上には結びつかないであろう。

全体としてはすぐ生産性の向上につながらないとしても、個別企業ではIT投資により生産性があがるのではないかとも考えられるが、業種によっては新規に設備投資して多少効率よいオペレーションをするよりも、従来の設備を使い続けたほうが低コストで採算性がよい分野も少なくないのではないか。 残念ながらバブル期に増強された設備はまだ償却が済んでおらずバランスシートに鎮座している。 また、効率の悪い旧設備であるほど多くの人がそこで働いている。  設備廃棄は大幅な財務および人員のリストラを伴うことになる。

それでも一昨年暮れには、血を流しても大胆なリストラという声が財界のあちこちから聞こえてきたが、最近では一部を除いてトーンダウンしているように感じられる。 政府による銀行への公的資金注入、中小企業への巨額の信用保証、ゼネコン等へのこれまた巨額の債務免除などを立てつづけに見ていると、経営者にしても「なぜ自分だけそんな嫌なことをやらなければならないのか」という気になっても無理のないことである。  

本来はそこで株主が経営陣の尻を叩きリストラ断行という形になるのだが、株式持ち合い解消もまだ道半ばで、政府などが雇用維持を求めたり淘汰を嫌って逆にブレーキとなっていることもあり、企業の収益性の回復は鈍い。 これでは、近い将来に財政再建が待ったなしとなったときに、公共投資が減り、消費税率がアップするという状況下でも十分な利益が出せる体質になったとはとても言えない。

それでもまだ製造業は積極的に改革を行っている方で、金融などはまだまだ不十分である。 筆者の近所だけで、郵便局、地銀2行、第二地銀、信金2行、少し離れてJA、信用組合、都銀4行、地銀・第二地銀数行、信託銀行がある。  証券会社も数社あり、そのうえオンライン銀行・証券が目白押しである。  今は金融業という感じはしないが生損保も大手は皆ある。 業態の垣根が壊れようとしているときに、これはいかになんでも多すぎる。  

とはいえ、数だけからいけば外食や小売チェーンなども確かに多く、多いから悪いとストレートにはならないだろう。  しかし、外食や小売は提供するサービスがずっとオリジナルである。  一方金融業の差別化は銀行を最たるものとしてなかなか進まない。 差別化を図れないのであればあとは効率化しかなく、それならやはり人員/給与/店舗の大胆なリストラと貸出先、貸出条件およびその他サービスのこれまた大胆な見直しが不可欠だと思うのだが金融不安解消で一服ついてしまったためか収益性はゼロ金利頼みの状態である。

で、最後に株の収益性である。 これはインカムゲインは冴えないものの、値上がりによりキャピタルゲインが大きく、トータルとしてこの1−2年はなかなか優秀である。 しかし個別銘柄を対象に実際に投資する場合、理由はなんであれゲインが大きくなればよいが、全体で見た場合に株価が企業の収益性からかけ離れて上昇するというのはいびつで程度によっては危険な状況である。  金利の問題もあるが、長い目で見た場合株価は企業収益と連動し、そして企業収益は資産効率と連動する。

以上を合わせて考えると、現状は多額の公共投資と信用保証により何とか需要が支えられている中、株価上昇によるマインド好転および資産効果、若干のリストラにより企業の収益性が多少好転し、それをまた株式市場が好感して株価上昇につながるという好循環の中で何となく景気が回復しているのではないかと言う感じが漂ってきたというところであろう。  しかし、長銀や日債銀の譲渡に渡って政府がいろいろ注文を付けたように、一部上場の大企業であっても厳密にリスク管理したらとても今の金利では金は貸せないという会社も少なからずあるのが現状である。  株価が上がっている今のうちに手を打たないと企業自身が淘汰されてしまうという自覚をどれだけの経営者・株主が持っているかが今後を占う鍵であろう。

 


00/03/23(木)「いつまで続くごまかし」

年金改革法案が参院を通過し、週内にも成立の見通しとなったという。  今のままでは近い将来の年金制度の破綻は目に見えて明らかであり、それを改革しようということ自体は必要に迫られたとはいえ好ましいことである。

ところが法案の中身を見ると、この改革が有権者、とくに数も多く投票率も高い中高齢者層に最大限配慮する余り中身のきわめて乏しいものになっていることがわかる。 現在の年金制度の最大の問題点はそれが「年金」の名を借りた「世代間所得移転」制度である点であるが、この世代間の不公平は今回の改革ではまるで改善されないばかりか、場合によっては更に広がってしまう。

厚生省の試算を例にとってみると、現在70歳の平均像においては保険料負担が1300万円に対して、旧制度での受取額が7100万円、改革後の受取額が6800万円となる。  また、現在50歳の平均では、保険料負担が3800万円に対し旧制度での受取り額が6200万円、改革後の受取額が5700万円となる。  これに対し、現在30歳の平均では、保険料負担と旧制度による受取額がともに6100万円、改革後の受取額が5000万円となる

  保険料負担

受取額

掛け金−受取額
旧制度 改革後 旧制度 改革後
70歳 1300万円 7100万円 6800万円 +5800万円 +5500万円
50歳 3800万円 6200万円 5700万円 +2400万円 +1900万円
30歳 6100万円 6100万円 5000万円 0万円 -1100万円

よりわかりやすく書き直すと、現在70歳、50歳、30歳の各層の年金収支(掛け金―受取額)は改革前でそれぞれ+5800万円、+2400万円、0 であるのに対し、改革後は+5500万円、+1900万円、−1100万円となるというのである。  驚くなかれ、厚生省の試算によっても、世代間の収支格差は今回の改革によりむしろ広がってしまうというのである。(格差以前に、掛け金を何十年も運用してそれでも受取総額が払込総額に満たないということ自体恐るべき事態である。)

厚生省の試算がどのような前提にもとづいているか明らかでないが、改革の柱が
1)支給額の一律5%カット
2)支給開始年齢を2013年から段階的に60歳から65歳まで引き上げる
ということでは、団塊の世代以前とそれ以降の世代では当然格差は広がるであろう。  なぜなら、団塊の世代までは60歳から年金が受け取れるのに、それ以降の世代は61−65歳からの受取りとなるからである。  この法案は団塊の世代の「逃げ切り」を許す法案なのである。

しかしながら、年金財政健全化の観点からすれば、もっとも人口の大きい団塊の世代に対して支給を5%しかカットできないことは致命的であると言える。 日本の人口構成はこの世代までは後へ行くほど人口が増える正常な形となっているが、それ以降は基本的に後の世代ほど人口が減る異常な形となっている。 21世紀の日本を背負う(すなわち現在30代以下の世代)の負担を軽減するためには、この団塊の世代の給付・負担のバランスを大幅に変えるとともに、若年人口を増やすか、または現年金制度を廃止して消費税を財源とする新たな高齢者福祉制度に切り替えるかしかない。  後の2つは年金制度の枠外であるので、現行制度の改革を唱えるならば団塊以前の世代への給付の大幅カットは不可避のはずである。  しかし、今回は選挙を控えてか不可避を避けて通ったのであり、これは改革の名を借りた問題の先送りに他ならない。

問題が深刻なのは、こういう現象がこと年金に限ったわけではないからである。 現在すでに50歳以上の世代は、政府が赤字の山を築きながら行ってきた巨額の公共投資の恩恵を少なからず受けてきた世代でもある。  次の世代は有益性が疑わしい資産とともに巨額の債務を受け継がねばならない。  必然的に財政は硬直し、建設的なプロジェクトにも公的資金をつけるのは至難となるであろう。  こういう境遇に生まれてくるだけでも不遇な上に、年金・健康保険という本来自分で自分の将来のために掛ける制度が、自分たちの分まで公共投資を使い込んだ世代への所得移転に使われるというのは余りに気の毒である。

自己責任原則という言葉がよく聞かれるようになったが、肝心の社会制度がこれに真っ向から逆行している。 もちろん、福祉など自己責任と相容れない部分はあるが、最低限のセーフティーネットを保証する福祉は「保険」とは一線を画すべきである。 公的介護保険、今回の年金制度改革などこの福祉と保険の「良いところ取り」(若年層からすれば「取られ」)は、ただでさえ乏しいといわれる国民の責任感を更に希薄にし、ないと言われる若者のやる気を更に吸い取るものである。 株式市場で勢いのあるうちに、政治の場にも青年層がどんどん出てゆかなければ日本社会の地盤沈下は進むばかりである

 


00/03/13(月)「外形標準課税に思う」

石原東京都知事の大銀行狙い撃ちは、かねてから赤字法人を対象とした外形標準課税を導入しようと手ぐすね引いて待っていた勢力を一斉に元気づけて、景気低迷でご法度となっていた導入への議論が一気にはじまったようである。

まずそのきっかけとなった東京都の大銀行だけを対象にした課税についてであるが、銀行だけ、それも一定規模以上だけが対象となると「法の下の平等に反する」ことは事実であろう。  また、一方で大量の公的資金を注入しておいてもう一方で税金の形で吸い上げるのでは非効率の極みであるという指摘も事実である。

しかしながら、こと東京都そして石原氏に関する限りいずれの批判も問題にはならないと筆者は思う。 まず公的資金が銀行に限って投入されていることを忘れてはならない。 一応金融システムを守るという大義名分はあったが、営利企業それも実質債務超過が疑われ信用不安を起こしているような企業に格安の金利で国が資金を投入したのである。 しかも銀行はそれを受けて正当性が極めて疑わしい債権放棄を次々に行っている。 銀行であるというだけで優遇して救済され、さらに中小企業向け融資はどんどん公的保証付きに切り替えつつ、実質破綻状態の企業に借金棒引きを行い基準なき恣意的な企業救済を行っているのも事実である。 

さらに唯一地方交付税を交付されていない東京都の住民にとって、払った税の少なからぬ部分はまともな産業もない地方の自治体に交付され必要度の疑わしい道路や施設がつくられ、自分達の財政が破綻に瀕するというのは我慢のならないことでもあろう。 国が公的資金を銀行に投入し、その一部を外形標準課税として東京都が吸い上げることはなるほど非効率であるが、東京都にしてみれば本来自分達が留保すべき分を国および他の地方から取り戻した感覚にすぎないと思われる。 そしてそのこと自体が不当であるという明らかな理由は見出し難い。  一票の格差がいつまでたってもなくならず、政権党を地方出身議員が牛耳る現実をかんがみると、あっぱれですらある。

ここで話を外形標準課税一般に戻すが、銀行に限らずどの企業も社会基盤および公共のサービスの恩恵を被っているのだから、活動規模に応じて税金をはらうのが当然というのが導入論者の主張である。 なるほどそれは応益者負担の原則として筋がとおっている。 しかし、筋を通すというならもう一本通していただきたい。 なぜ、法人だけ応益者負担なのか。 住民税は存在するがとても応益者負担といえるほどのものではない。 法人に外形標準課税というのなら、個人の人頭税もしくは一歩譲って所得税の課税最低限の大幅引き下げが筋なのではないか。

満足に生活のできない個人に課税しても、また何らかの援助がいるのだから意味がないという人も多かろう。 しかしながら、赤字法人とくに万年赤字法人に課税しても財務内容を悪化させ債務超過、破綻への道をより早く歩ませるだけである。 低所得の個人に人頭税をかければ自己破産となるのと同じである。 なぜ個人はダメで法人ならいいのか。 ただ取りやすいから取ればよいという発想ではないのか。

こういうと「課税逃れでわざと赤字にしている法人が少なくないから意味がある」という反論がかならずあるが、それは「ずるい法人から税を取るために、本当に窮地にある法人が多少破綻しようとも仕方がない」という考え方である。  そういう方々にお尋ねしたいが、では個人の所得は皆が能力の限り精一杯稼ごうとした結果であるのか。 あくせく頑張り高い所得税を払って全て自前でやるより、公営住宅に入居できたり各種補助が受けられたりする程度の所得が得られたらのんびりゆっくりやればよいと考えている人たちはいないのか。 応益分の税負担をしている個人はいったい全体の何割いるのだろうか。 正確な数字は知らないがおそらく法人でも個人でも一部の高額所得者へ負担が集中するのは同じような状況ではないか。  さらに法人所得税には課税最低限などというものはないし、税率は個人と比べ物にならないほど高い。 基準のわからぬ債務免除とか補助金のようなものはあるが、基本的に生活保護もない。

「企業破綻やむなしで導入」というのは一つの考え方であるが、大企業向けに雇用調整助成金を出し、中小企業向けに無尽蔵に近い公的信用保証を付けていながら外形標準課税というのは、彼らが矛盾を指摘するところの石原知事と同じ穴の狢ではないか。  お金に名前・出所が書いてないのをいいことに、銀行が公的資金をゼネコン等の債務免除に使い、赤字法人が信用保証枠で借り入れたお金で税を払い、雇用調整助成金を受け取る企業がそれを年金(退職金)資産の補填に使うというような茶番はもう止めにすべきで、それこそが筋を通すということであろう。


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